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悪名高い武富士!武富士の歴史と現在の状況がすごい!

現在ではすっかり安全で手軽に利用できるようになった消費者金融ですが、その歴史は実に長く壮絶です。消費者金融の歴史を語るうえで絶対に欠かせないのが武富士の存在です。昭和生まれの人の中には武富士の社名を知らない人はいないのではないかと思うほど、いい意味でも悪い意味でもよく知られた会社です。

武富士はその強引な経営方針によって沢山の批判を浴びてきましたが、一時代を作った消費者金融と言っても過言ではないでしょう。都内の閑静な住宅地に武富士の会長の豪邸がありますが、今はひっそりとしていて当時の面影は全く感じられません。

消費者金融の象徴ともいえる武富士の歴史を知ることは消費者金融の歴史そのものを紐解く上で欠かせません。消費者金融が現在のように健全な会社になったのは、様々な問題が取り上げられ、そのたびに改善されてきたおかげです。

武富士とはどのような会社だったのか、現在も経営を続けているのか、消費者金融の歴史と併せてご紹介したいと思います。

武富士は1966年に街金として始まった!

武富士は1966年に板橋区に武井保雄氏によって創業された富士商事が前身です。戦後の高度経済成長の中で個人融資に目を付け、高利貸しとして成功していきます。また時代の流れを敏感に読み取り、消費者金融のイメージアップにも力を注いできました。

武富士といえば有名タレントを起用したCMやスタイリッシュな広告が今も記憶に残っている人もいるでしょう。とくに印象的だったのは複数のダンサーを使ったインパクトのあるCMです。

武富士の歴史を見てみると当時武富士がどれだけ勢力を伸ばしていたのかよくわかります。例えば1991年には元警視総監であった人物を顧問として迎えていますし、2000年にはロンドン証券取引所に一部上場しています。

消費者金融業界は拡大し、社会的な立場も大きくなっていきます。2002年には武富士やその他の大手消費者金融が日本経済団体連合会(経団連)に加盟しています。

武富士の全盛期の経常利益はは2000億円以上あったと言われています。

2000億円とはすごいですね。

創始者の武井保雄ってどんな人物?

武井保雄氏は1930年に埼玉の農村部で生まれました。戦時中に国民学校を卒業すると陸軍の整備員になりましたがやがて終戦を迎え、その後は国鉄の職員として働きます。やがて自営業を営んでいた叔父を頼って上京。様々な職を転々としますが、1965年に個人で小口融資を始めます。

一代で消費者金融の頂点を極めた武井氏の手腕には驚きです。

しかし武富士の経営方針を批判する人も続出!盗聴事件も

武富士は個人融資の拡大により膨大な利益を得ることになりますが、武富士のやり方をよく思わない人も多く様々なトラブルが起こります。とくに有名なのがフリーライター宅盗聴事件です。

これは武富士に対して批判的な記事を書いたフリーライターの自宅を盗聴していたという事件で、武富士のイメージがダウンし株価が下がるのを懸念した武井氏の指示で行われたとされています。この事件で武井氏は逮捕されています。

さらに武井氏はフリーライターと週刊誌を相手取り名誉棄損の訴訟を起こしていますが、全面敗訴しています。その後もこのフリーライターは武富士の厳しい取り立ての実態を描いた記事を発表しています。

2001年には武富士の支店を狙った強盗殺人、放火事件も発生しています。

支店に押し入った男は現金を要求しましたが、店長が拒否したためガソリンをまいて放火、社員5名が亡くなっています。

支店長が現金の要求を拒否した裏側には武富士の経営実態に問題があるのではないかと言われています。また防犯訓練も行われておらず、非常口もなかったことから武富士の責任が問われていました。のちに遺族に示談金を支払っています。

このように武富士はその強引な手法で批判されることとなりますが、同時に借金問題で苦しむ人々の自殺などが問題となります。

事態を重く見た行政により貸金業者に対する法律が整備されていきます。

以前のような利益を得ることができなくなった消費者金融の多くが経営難に直面しますが、武富士も例外ではありません。

武富士の強引な取り立ての実態

武富士が批判を受けたのはその強引な取り立てやマニュアルに他なりません。武富士の取り立ての様子は現在の闇金漫画などで描かれている通りだったと言われています。自宅や会社に日夜問わず催促の電話や訪問が繰りかえされ、家族のもとへ取り立てが行われることもありました。

また当時よく行われたのが深夜の電報攻撃です。

電報は24時間送ることができるのでわざと深夜を選んで「カネカエセ」などと債務者のもとに電報を送りつけていたのです。

当時多額の借金を抱える人が続出したのは、武富士が緩い審査基準で返済見込みの低い利用者にも積極的に貸付を行っていた背景があります。

武富士の衰退はなぜ起こった?武富士の会社更生法適応まで

このように一時代を築いた武富士ですがやはり時代の流れには逆らえず、2009年には資金繰りが悪化し、債務不履行となっていました。この背景にはやはり貸金業法の改正による影響が大きく、利益は以前の半分までに落ち込んでいたといいます。

2010年の決算期には資金繰りが困難となり、実質上会社の継続は難しいところまで来ます。その後、武富士の持つ債権は富士クレジットに譲渡され、譲渡担保という形でさらに日本復興銀行に譲渡されていたことが判明した。また同時期に一部の顧客に対し、過払い金請求をしないなどの和解書を書かせていたことが問題となります。

同年武富士は会社更生法を申請ましたが、その負債額は4000億円を超えるものでした。

武井家出身の会長は退任となります。2011年には更生計画に従って武富士は韓国ナンバーワン消費者金融が買収しますが、その会社も資金調達が厳しくなるという状況に陥ります。そのため株式会社日本保証が武富士を引き継ぎ、更生会社TFK株式会社に社名が変わります。この会社は武富士関連の訴訟の対応を行っていましたが、2017年3月に更生手続きを終結しています。

このように栄華を極めた武富士が衰退したのは2つの大きな原因があります。

一つは法律の改正により収入以上の貸し付けができなくなったこと、そして過払い金請求の金額があまりにも膨大だったことです。

大手消費者金融の多くが大手銀行グループの傘下に入る中で、武富士は自社経営を続けたため資金調達が困難になったことも倒産に至った理由の一つです。

消費者金融の象徴とも言われる武富士!計画的な倒産という見方も

武富士の歴史を紐解いてみると消費者金融の歴史が実によくわかります。戦後の高度成長期の中で個人融資のニーズが高まったこと、バブル崩壊とともに経済的に困窮する人が増えて消費者金融が急成長したことなど、日本の経済そのものを反映しているようにも見えます。

中には武富士の倒産は資金を守るための計画的な倒産だったと指摘する人もいます。倒産を見据えて、新規貸し出しはせずに回収に集中していたため資産は潤沢にあったと言われています。結果的に会社は倒産したけれど、創業一族の資産は残り、今でも世界のどこかで悠々自適な生活をしているのでしょう。

武富士の歴史を見ると武富士の一人勝ち、あるいは勝ち逃げのように感じましたが実際のところはどうなのでしょう。しかし、武富士のおかげで現在の消費者金融の土台が出来上がり、消費者金融の発展に貢献したことは否めません。

今後も消費者金融はより便利により安全に進化していくと思います。利用する側もルールを守って賢く借入することが大事です。

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